1月17日 第1話 書の数式 岩井笙韻

書とはどういうものかと聞かれることがあります。

それに対しては、いろいろな答え方があるでしょう。書く人により、見る人により、人の数だけ答えがあっていいのですが、芸術とか、芸(道)というジャンルで考えたときに、どのような位置に書があるかという点では、私は次の数式で表現できると思っています。


   書=(ピカソ+市川團十郎)÷2


書が個人的なものの発露であるという点では、絵画と同じです。よく、私は個性がないから、などという声を聞きますが、とんでもない話で、誰の生き方もその人だけのもの。他の人では代用がききません。ただ、なかなか自信がなくて、そのように思い切れないだけのことなのです。だから、あなたもピカソ。

ピカソを見ると、個性の固まりに見えますね。確かに、私にもあなたにもピカソのような生き方は出来ないし、絵も描けません。しかし、逆にピカソにもあなたの生き方は出来ません。書にもあなたなりの書があるのです。

しかし、芸術家の一生は、単に打ち上げ花火のようなものではありません。必ず、他の人に影響を与えます。それは、見る人に感動を与えると言うだけでなく、自分でも絵を描いたり、曲を演奏したりしてみたいという人、つまり何かを表現したいという人が出てくるものです。

でも、ピカソが絵の描き方を懇切丁寧に指導するなどと言うことは考えられませんね。逃げ出してしまうでしょう。実際、ピカソスクール等というものはありませんでした。又、二代目、三代目ピカソというのもいません(たまに猛者がいて、例えば、ダリには有名な影武者がいます。たまに、そちらの画いたものの方が良いことがあるそうで)。

その点で、書には、その技術などを伝える術があると思うのです。

だからその点で市川團十郎(有名な歌舞伎役者なら誰でも代入可能)。つまり、歌舞伎。

こちらの方は、何代目襲名披露というものがある。型を伝えていきます。それでいながら、何代目はどういう特徴があったなどと言われるのですから、没個性というわけではありません。

余談になりますが、『型の伝授』というのはすごいものがあります。まあこれは聞いた話ではあるのですが、能の世界で、駆け出しの者が、例えば<悲しみ>を表現しようとする。するとまずは、心の中で自分で悲しみを作って、それを形で表現しようとするに違いないのです。

しかし、師匠はそんなものは一笑に付してしまう。その代わりに、手首の角度が何度、指は中指をこの角度に保って、などと指導する。形のことばかり言って、心のことなど何も言わない。それで弟子は言われたとおりにやってみる。すると、これが見事な<悲しみ>の表現になる。そして、その型を通して逆に<悲しみ>の深みが理解できるようになると言うのです。

ですから、型を伝えるというと、個人の個性を無視しているように思う向きもありますが、中には、計り知れない智恵や力が潜んでいて、それが、個性の異なる人から人へと伝わり、様々な花となって開くのです。

上の数式は、そのようなものの表現として考えてください。


あなたの個性はかけがえがないという意味で、あなたはピカソ。

あなたの書はどこからか型として学び、又型として伝えていけるから、あなたは市川團十郎。


さて、ここからが問題です。

絵だと、内容としては何が画いてあるか分からないものも多い。しかし、書には必ず文字が書いてあります(尤も、これが書の古典派と前衛派とを分かつ分水嶺ともなるのですが)。又、その書かれた文字が誤字であったらいけませんと言うことになっている。

となると、型の継承の前に、文字を知らなければなりません。

でも、今度は、文字の<原型>というものは、不思議なもので、ありません。必ず、誰かの書いた字や、印刷された文字からそれを覚えていく。

初めから、良い姿の文字を覚えようと思ったら、子供に、良い書を見せるしかないでしょう。そして、それをまねてみる。

ここに、<手本>というものがクローズアップされてきますね。そこに何かを引き継ぐと言う、これまで述べたことが深く関わってくると思います。手本については面白い話題がたくさんあります。予定では次に手本に関わることを・・・。(予定は未定)

 

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