2020/07/02
今日は変わった話です。
よく野球でも、『一球入魂』と言う言葉を耳にします。ピッチャーが向かってくる打者に対して、渾身の力を込めて投げ込むとき、このように言われます。
しかし、本当の入魂と言うことについては知っている人はほとんどいません。実は、書の作品にも入魂されているものとされていないものの違いはあります。技術的な見方をすると、この違いは分からなくなります。
もしも、作品が入魂できているかどうかで判断して、展覧会の入落を決めたら、恐らく雰囲気ががだいぶ異なって来るかも知れません。ただ、会場そのものが居心地の良いものとなる保証はありません。もしかしたら、非常に変わったものになる可能性があります。 さて、そんなことを言っても、もっと具体的に説明しないと何が何だか分かりませんね。
私は、この『入魂』と言うことに関しては二つのことがあると思うのです。
まず分かりやすい方から。
もう大分前のことになりますが、禅の大森曹玄の本に書いてあったと思うのですが、禅宗の名僧の書いた書を墨跡と言いますね。有名な墨跡を見てみると、そこに共通して、墨の輝きや、線の強さ、凛とした雰囲気が感じられます。そこで、実験をしてみたとのこと。まず、修行を十分にこなしている僧侶に墨をすって『一』と書いてもらう。次に、その寺に見学に来た旅行客にも同じ墨、同じ筆でやはり『一』と書いてもらう。出来上がったものを比べてみると、文字は一ですから、そんなに形に違いはない。まして、旅行客は前に書かれたものを意識して書いているから形は似ています。しかし、その書から感じられるものは全く違う。僧侶の書いたものは、白い紙の上に『一』がくっきりと浮かび上がっている。それに比べて、旅行者の方はなんだか墨の色もぼけて、ふにゃふにゃしている。
その違いが何であるのか、実際に書かれたものを顕微鏡写真で拡大し、墨の粒子まで見えるようにしたのです。すると、僧侶の書いたものは、墨の粒子が筆の動きと同じ方向にきれいにそろっている。それに対して、旅行者の方は、墨の粒子がバラバラな方向を向いていたのだそうです。確か、本にもその写真が載っていました。
つまり、『心』とか『意志』のようなものが、墨の粒子を一定方向に向けているわけです。一般人の方はそこまで意志(あるいは念)が強くないので、もっとはっきり言えば集中力、注意力散漫なので墨の粒子がついてこない。この違いがくっきりかぼんやりかの違いとなるわけです。分かりやすいですね。
一球入魂だってこのように考えたら理解できます。打者を空振りの三振に打ち取るために、キャッチャーめがけて繰り出す強力な、意志を持った球!当たったら痛そう。その威力に打者の心も負けてしまうのかも知れません。
この状態がいわゆる『墨気が澄む』と言うものです。意志が混じりけなくストレートに表現されたもの、とも言えるでしょうか。
そうなると、これは宗教家でなくても、集中力がある人なら、同じ結果が得られるのではないでしょうか。特に、名だたる書家となれば、寝ても覚めても書に取り組んでいるわけですから、筆を持ってさっと書けば、同じようなものが書けると思います。断っておきますが、墨気が澄んでいると言っても、その書いた人の性格が澄んで清らかと言うわけではないですよ。変人なら変人に徹していることがシンプルさを生むわけですから、品格のある人を想像したら大抵は間違います! ただ、書家の字と墨跡との違いは、技術的な問題はあると思います。墨跡には書の技術としては稚拙なものもあります。だから印象は異なります。尤も、それが却って木訥な良さに見えると言うこともあるのですが・・・。
と、ここまではまだ常識で理解できることです。ここからが本番。第二の領域。
ここで話が変わりますが、小説や漫画で名作というのがあります。その中には、とんでもなく長いストーリーを持ったものや、推理小説だったらこんな結論を初めから考えて書いているのだろうか、と思うようなものも少なくありません。ここには共通のことが言われています。
まず、漫画から行きましょう。ジョージ秋山の『浮浪雲』、現在単行本で80巻を超えている超長生きの漫画。ところが連載からもう30年以上経っているのに、少し前に見たら、絵のタッチは変わっているけれど、登場人物の年齢はあまり変わっていない!成長せずに30年!(もっとも、私が見たのは五年くらい前だからその後変わった可能性もある。無いと思うけど。今度本屋で立ち読みして確かめる予定。)内容は、どちらかというと大事件が起こったりするよりも日常の出来事が多い。それで30年もっている!いくらでも続きそうです。
ジョージ秋山は昔、物語性を持たせたものが途中で進まなくなって挫折したこともありました(これは永井豪も同じ)。ストーリーを先に考えるとどうも頭が優先するようです。では、『浮浪雲』は何が違うのでしょう?たぶん登場人物が先に生まれたのだと思います。登場人物があるとき漫画家の頭の中で奇跡的な組み合わせで生まれたのです。そしてそれを描いてみた。そうしたら、次からは登場人物達が勝手に動いて物語を作り始めた。漫画家は動きたがっている登場人物をそのようになぞればいいのです。何しろ勝手に動いてくれるのですから。もう、構想とか予定なんてものではない。そこに、人々が生まれてしまったのです。つまり、命が宿ったわけですね。
今度は、小説に行きましょう。ホラーの大御所、スティーブン・キング。恐ろしくも面白い小説が山ほどあり、皆さんにお勧めのものもたくさんあります。又、沢山映画にもなっている。一例を挙げると、
『キャリー』
『シャイニング』
『IT』(ETではなし。イットと読む)
『痩せていく男』etc
『シャイニング』等は本当に怖い。主演、ジャック・ニコルソン(そう聞いただけで怖そう。本人が妖怪っぽい。又、この作品にはキューブリック監督の別作品があるから注意)。冬、雪に閉ざされ、春までは山を下りることの出来ないホテル、そのホテルの、冬だけの管理人をすることになった家族に起こる惨劇。ヒエーッ。
ところが、このキングさん。時にすごく人間味溢れる物語を書く。これが又素晴らしい。昨人の暮れに見た何かの雑誌で、ビデオ100選のトップにランクされた『ショーシャンクの空に』。絶対おすすめ。
しかし、これから挙げるのは、それに優とも劣らない『グリーンマイル』。グリーンマイルとは実は電気いすに向かう廊下の絨毯のことなのだが、話はなかなか面白い。ホラーでは全くない。それで何でこの小説(映画も)を挙げたかと言いますと、この小説は文庫本(向こうではペーパーバック)で六分冊になっていて、毎月一冊ずつ発刊したものです。その序文に書いてあったのだが、第一巻を刊行した時には、まだ筋が決まっていなかったというのです。見込み発車と言っていたと思います(自分の倉庫にしまい込んでどこにあるか分からないから、又立ち読みで確認しなければ)。
この場合でも、主人公達がよってたかって物語を作り上げているようなのです。それを小説家は書いていくだけ。もっと正確に言うと、作者の頭の中に何となくアイデアが浮かぶ。それを書いてみる。<浮かんだアイデア>と<描かれた・書かれたキャラクター>、この二つが絶妙に繋がるときがあるのです。その時に、そのキャラクターは命を持つことになる。それは比喩ではありません。本当に命をもって主張を始めるから物語は作家の手を離れたように、どんどん進むことになるのです。 最近の漫画では『ワンピース』がそれだと思います。ちょっと登場人物が多すぎるようになってきましたが・・・。
これを『入魂』と言います。
だから、このように進み始めたら、筋は思うように行きません。ある意味では、出来の良い作家というものは、そうして命の吹き込まれた主人公達の手綱をうまく操っているとも言えるかも知れません。このあたりのことは何とも言えないことで、前にも言いましたが、作家は必ずしもそのストーリーの終わりを予測して書いているわけではないので、書いている内にそれが<自分の>アイデアで展開しているように思えると思います。だから、「書きました」と言うことも言えるし、「書けてしまいました」と言うことも出来るのです。どこからか飛んでくるアイデアは、どの作家に来てもいいというわけではなく、何かの法則で来るのでしょう。だから、やはり思いも寄らないものが書けてしまったとしても、それはその作家が生んだものなのです。
そのように考えると、親と子供の関係が出来るわけで、「こんな子供を産んだ覚はない」という言葉が、作家と作品の間にも通用することでしょう。
つまり、入魂とは、生まれた作品が作家のものを離れて独り立ちすることです。
神事の世界でも、仏像に行者が入魂すると言うことが頻繁にありますが、その場合でも、入魂とは行者が自分の命を削るようにして入魂しても、そこに入魂された魂は生みの親とは異なる命なのです。だから、仏像にうまく入魂できても、行者はその仏像を自分よりも尊いものとして敬うものです。
書に話を戻していくと、西川寧先生が、自分の書いたものの前ではうなされて寝られないような、そんな作品を書きたいと言われたことがありましたが、これはまさにこの入魂された作品のことを語っているように思えます。自分と似たものが近くにいても安心できるでしょうが、それが誰かも分からない者だったら、確かに寝てはいられません。まして、それが、壁や床の間に飾ってあって、波動を送るように何かを訴えてくるとすれば尚のことです。
自分のことを行って申し訳ありませんが、自分の作品にもこの入魂が出来てしまったことがいくつもあります。その場合は結構大変です。大きな紙に、目印につけて置いた鉛筆の跡を消そうとして、作品の上にずかずかと無遠慮に乗ると、気持ちが悪くなります。何時間もその状態が続くとともあります。作品がもっと気を使えと言っているようです。そんなときは悪かったな、勘弁してくれと心から思うしかできないのです。
この入魂された作品は、時につむじ曲がりです。展覧会では多くの場合は、墨が黒々として背景の白も引き立つように見えますが、たまに、鑑賞者を嫌っておかしな雰囲気をもたらすことがあります(審査の時にそれが出たらどうしょう。)。それでも、それは生きた作品ですから、もう自分が書いた後は私の手には負えません。漫画の時と同じです。書にはストーリーと呼べるものは、『作品の意味内容』ではなく、石川九楊氏の言い方をまねすれば、『筆触の変化』に相当するでしょう。しかし、その筆触をも超えて、何か命があるのです。夜見たら怖いかも知れません。絵画でも、円山応挙の描いた軸から本当に幽霊が出るというのもあり得ると思います。
しかし、考えると沢山の問題があります。例えば、入魂された命とは、ではいったい何なのか?どのようなときに命が入るのか?等々。
本当はここで述べたことは、入魂に関してはほんの一部のことで、まともに考えていったら、それこそ一冊の本になると思います。しかし、まあ今日はこんな事もあるのかと言うくらいに聞いてもらえたらいいかと思います。